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『火花-Ghost of the Novelist』をご覧になるにあたって

「何者?」 

演出・脚本 小松純也


ご来場ありがとうございます。


 例えば児童公園の昼下がり、ぶらんこに乗る娘の小さな背中を押しながら僕は少し不安になります。世界から隔絶され、父と娘のふたりだけで生きている感覚とでもいいましょうか。娘が喜ぶように、求められるまま右往左往する僕はその時ただの父親であり、娘以外の誰にも必要とされていない。見渡せば忙しそうな人々の往来から完全にドロップアウトしている。「何者」でもない。誰でもない。そんなめまいに似た感覚に陥るのです。


 小説「火花」は、さまざまな読み方ができる素晴らしい作品だと思いますが、僕は「何者か」になろうとしてならなかった人たちの物語として読みました。
芸人さんの世界はいわゆる人気商売。人気が無ければその人は誰でもなく、いつか消え、いなかったことになる苛烈な世界です。この世界には「人気がある」人と、「人気が出るかもしれない」人しか居ません。そして人気があるか?人気が出るかもしれないか?を判断するのは本人です。さらにそこに「面白いか?」という主観と客観が入り混じった何とも複雑な問いがあります。「何者?」と問われ、「芸人」であるためには、常にそれを自分に問いかけながら、YESと答え続けられなければなりません。。


 僕は芸人ではありませんが、体一つにおのれの存在を問い続ける彼らの激しい生きざまに魅かれながら、その傍らでぼんやりと生きてきました。翻って自身に問います。君は「何者」?と。サラリーマンです。それは間違いない。でもそれって「何者」?
 会社というところは、自身を世に問うことが怖い人間が逃げ込むシェルターのようにも感じます。僕は芸人さんをはじめ、芸能の世界に生きる人たちに対して、ずっとそのうしろめたさを感じてきました。思えば高校を出て演劇の世界に潜り込み、大学にはほぼ行かず、大学生にすらなれなかった。そして属する劇団がプロ化することに違和感を抱き会社に逃げ込んだ。そしてずっと劇団上がりと言われながらテレビを作ってきた。テレビのプロか?と言われりゃあんまりそんな気がしない。ささやかな挫折と逃避を繰り返しながら、僕は「何者」でもないまま初老を迎えつつあります。


 でも思うのです。「何者か」にならなきゃいけないの?と。
 ぶらんこを押すと娘は「もっとこわくしてー!」と笑います。力を込め、宙に舞うぶらんこで歓声を上げる娘に、この人がいる幸せを切実に思います。僕はただの父親。そこには何の自己実現もないかもしれません。でも生きている。その実感はあります。ただ生きてしまっているだけかもしれないけれど。
 人として生を得た以上、「何者か」にならなければと思います。なりたい自分と現実のギャップに悩んだこともあります。でも、明日もまた安かれと願うのも人ならば、その思い込みは人間性への暴力のようにも思うのです。


 このお話は、そんな「何者」でもない僕たちの冒険の物語なのかもしれません。
 「この長い月日をかけた無謀な挑戦によって、僕は自分の人生を得たのだと思う」
 語り手の徳永は言います。経験した者のみが知る重みがその言葉にはありますが、僕らは読者としてその経験をなぞることができます。
 「何者」でもない僕ら側から旅立った徳永は、芸人の世界の波濤を越え、戦火をくぐります。彼が繰り返す挫折は僕らの小さな挫折と重なり、静かに血を沸かせ肉を躍らせます。
 そして彼は僕ら側に生還するのです。
 そこで彼は、物語は何を語るのか?耳を澄まして頂ければと思います。


 「芸人」であり、「小説家」でもある又吉さんは、「何者か」というゆらぎを体現する人です。「女優」の観月さんは「何者」にもなる、ゆらぎそのものです。そのお二人が「本人の役」としてゆらゆら現れるところから「何者か」の物語を始めてみました。小説からはみ出してくる作者の静かなパッション、又吉さんにこの小説を書かせた切実なものに「何者か」の物語の核心があるような気がしたからです。欲張りなことを始めてしまいました。



 果たしてこの無謀な挑戦は、危ない橋を渡り切り、皆さんに何かを届けられるでしょうか?
 神のみぞ知る。でも僕は神様を信じています。

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